過去から今にかけて、「自分が選んだもの」に、
「自分らしさ」って、どのくらい入っているのだろう?
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”それって他人軸だよ”
って、どこで判断すればいいんだろう?
他人軸:自分軸、その割合が、何対何なら
”自分らしい”
になるんだろう?
って、
自分に向き合い始めて、
”自分の全てを自分らしくしたい”と躍起になっていた時、
悩んだことがあった。
他人軸っていうと、
・世間体
・育った環境の価値観
・周りに合わせる
・人の評価で決める
こんな感じに定義される。
これっていうのは、
自分というものがなくて、
だから選ぶことができなくて、
だから正しい方へ執着して、
あなたは正解だよ、って安心させてもらいたいからだ。
要するに、不安。
私も、
自分の人生に、自分がいない
って気づいて、
すなわち自分が他人軸だったと気づいて、
自分らしさを取り戻す!と決めた。
決めたはいいものの、
一つ選ぼうとするたび、
「これは自分軸:他人軸が、何対何だろう?」
と考えた。
また、不安だったんだと思う。
「自分は自分らしく生きると決めた。
自分らしく生きる人の、選択の仕方の”正解”は、どんな感じですか?」って。
うまく思い出せないけど、
”自分らしさという観点で、正しく選べていますか?”みたいな感じだった。
今までの考えて→選ぶのプロセスが、他人軸だったから、
新しいプロセスにしないといけないのに、
何を判断基準にすればいいの?
結局、基準を欲しがってた。
同時に、誰かの何かの話を聞くたびに、
この人は、ちゃんと自分軸の人なのかな?を探りたくなった。
自分軸の人なら、選び方を参考にしようとしていたんだと思う。
人に対しても、
この人は、自分軸の人?他人軸の人?って、
判断したかった。
結局、
それをやっている間は、ずっと不安だった。
考えたり、選んだりする時、
自分の望む方、自分がピンと来てる方と、
親や環境から受け継いでいた、私らしさとは違う価値観、
分けて考えられるようにはなってきた。
でも、
何対何か?
自分純度が何%か?
それが気になって仕方なかった。
なんで気になるんだろう?
考えてみると、
結局、ここでも安心を求めていたんだと思う。
自分軸で選ぶ人が正しくて、
他人軸で選ぶ人が間違ってる。
私は今、どっち側?って。
でも、
どんな人も、
自分純度100%の価値観で、
考えて、選んで、
って、難しすぎるよね。
どんなことにだって、
きっと、誰かの何かが混ざってる。
それでいいんだよ
って、自分を緩めることが必要だったのかもしれない。
なんか、書きながら、自分が緩んだ。
そうだよね、いいんだよ、なんでも、って。
それで、「自分軸で選べてる?」に、今の結論としては、
今、考えてる時、選ぶ時、焦ってないか?不安じゃないか?
それと、
今の悩みが、頭を支配するほどの大きな問題になってないか?
これがイエス、なら、
不安に飲み込まれていない時の私の選択は、
今の私なりの”自分純度100%”なんだ
ってことにしてる。
