「推しがいないって、おかしいこと?」
そう思う人にかける言葉は、
おかしくないよ
とか
いつか推したくなる人に出会えるかもね
とかではないのかもしれない。
推しがいない、 と、
だからおかしい、 を、
どうしてくっつけてしまうのだろう?
そっちを考えた方が良さそうだ。
私も、推しができたことがない。
そんな自分を、
友達の推し(当時は推しという言葉はなかった気がするけど)の話を聞きながら、
「自分には何か欠けてるのかな?」
と思っていた。
推しがいるという話を聞くと、
この人には推しがいるんだな
と、認識して、
推しはいないという話を聞くと、
この人には推しがいないんだな
と、認識していた。
そうやって、認識することは、
自分の中で、
この人は男、この人は女、
くらいのものだった。
それなのに、
そうやって認識した途端、
自分の頭の中で、比べる意識が働く気がした。
比べて、自分が上だとかをやりたかったわけじゃない
はず。
なのに。
なぜ比べたくなったのか?
私は、
推しがいるというラベルに、
・充実してそう
・羨ましい
・労力も時間も、自分にかけられたら自分のためになるのに
・なんか勿体無い
・でもやっぱり好きな推しがあるって素敵
こんな感じで、
複雑に箇条書きでくっついていた。
だから、その反対の推しがいない私は、
・全てを自分のために使える
という小さな優越感と、
私って、
推しがないって、
・何か、人間として欠けているところがあるのかもしれない
みたいな偏見が捨てきれなかった。
本当は、
推しがない自分をどう思っているか?
少し寂しいのか?
それともそれに満足しているのか?
そういう、気持ちだけで片付く話を、
人としてどうなのか?
まで考えたくなった。
”推しがいなくてもいい”
その感覚に、どこか自信を持てなくて、
やっぱり何か、推しがない私は、足りないのかも
みたいな感覚になってしまったのは、
「”ない”方のラベルを持った私は、どういうことなの?」
って、ひたすら”ラベルのある、ない同士”を比べ続けていた
せいだったのかもしれない。
実際私は、それに気づいて、
私、推しがないけど、そんな自分どう?
と改めて考えてみた。
うん、別に困ってないかな
それだけだった。
